朝日焼の歴史
朝日焼は、お茶文化の中心地として知られる京都・宇治にある窯元です。宇治川をはさんで平等院の対岸、朝日山の麓にございます。
今から約400年前の桃山時代から江戸時代に変わろうとする慶長年間に朝日焼初代陶作が窯を築きました。千利休が茶の湯を大成し、同じく茶人の小堀遠州が活躍した時代です。小堀遠州は、当時お茶の産地として力をつけてきた宇治とも関わりが深く、宇治茶の地位向上に大きく貢献しました。初代は遠州より窯名の「朝日」の二字を与えられ、それが「遠州七窯」のひとつとされる所以です。江戸時代初期、「宇治茶」と「茶の湯」の発展と共に朝日焼は盛期を迎えます。初代から三世陶作にかけて茶碗や水指などの茶道具が大名、公家、茶人に珍重されます。
その後文化の中心が、京都から江戸へと移っていくことで四世から七世の頃は非常に厳しい時代が続きました。瓦を焼いたり、宇治川の渡し船の副業をして代を繋いでまいりました。
八世長兵衛の頃になりますと、蛤御門の変で消失した瓦を焼いて御所に納めるなど公家の庭田家とのつながりから厳しい時代を抜け、煎茶の流行に合わせて現在の茶器の原形となる煎茶器を制作し始めました。その後、九世長兵衛の時代に隆盛を迎えます。
明治の混乱した時代には、多くの窯元が廃業に追いやられ、十二世の昇斎の頃には作陶を続けるには厳しい時代が訪れます。ところが、東宮殿下(後の大正天皇)のご来賓を賜り、その後、再び朝日焼は再興へと向かいます。大正十一年には十二世昇斎の次男鶴之助が渡英し、英国セントアイブスにて関東大震災のため帰国した濱田庄司に変わり、バーナードリーチのために登り窯を築窯します。
鶴之助は38歳の若さで他界したため、日本ではほとんど知られておりませんが、英国ヴィクトリア・アンド・アルバート美術館には初代陶作の作品とともに鶴ノ助の作品も所蔵されております。その後の戦争中の焼き物どころではない時代などの厳しい時代をくぐり抜けながら当代の十六世豊斎まで窯の火を守り続けてまいりました。
朝日焼では作品に押印することをとても大切にしております。初代は窯名を押印することは極めて稀な時代に小堀遠州より「朝日」の二字を与えられました。二世陶作の「朝日」の印は遠州の三男権十郎の直筆と伝えられています。二世の印は偏が「卓」となった「卓(たく)朝日」と呼ばれる作品として有名です。そして現在の十六世は十五世の豊斎と同じく高円宮妃殿下から拝領した「朝日」の二字を作品に押印しております。
現在の朝日焼は、初代の始めた茶の湯の「うつわ」と八世の完成させた煎茶文化の「うつわ」を中心に作陶しております。