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2020.10.15
朝日焼の系図
朝日焼は豊臣秀吉の活躍した桃山時代から江戸時代に変わる慶長年間に初代陶作が開窯した伝えられています。

初代 陶作   慶長年間    1600年頃
二世 陶作   寛文十年 歿   1670年
三世 陶作   元禄八年 歿   1695年
四世 長兵衛  享保十八年 歿  1733年
五世 長兵衛  宝歴十三年 歿  1763年
六世 長兵衛  天明六年 歿   1786年
七世 長兵衛  文政八年 歿   1825年
八世 長兵衛  天明六年 歿   1786年
九世 長兵衛  明治十六年 歿  1883年
十世 安兵衛  ?       ?
十一世 平次郎 明治三十五年 歿 1902年
十二世 昇斎  昭和七年 歿   1932年
十三世 光斎  昭和二十二年 歿 1947年
十四世 豊斎  平成十六年 歿  2004年
十五世 豊斎  平成二十七年 歿 2015年
十六世 豊斎  現当主

 

朝日焼、変貌の歴史は大きく4つに分かれます。

1.   初代、二世、三世の茶陶としての地位を築いた初期の朝日焼。

初代陶作は朝日山の麓に朝日焼を開窯し、小堀遠州の指導を受け「朝日」の二字を与えられたとされています。これが後に遠州七窯に数えられる所以です。初代の頃には、陶器に窯名を押印することは大変珍しい時代です。これは当時の朝日焼の窯元として、茶陶としての地位を示していると思います。また、二世陶作は小堀遠州の三男権十郎より直筆の「朝日」を与えられ、また遠州の茶友であり、弟子であった永井尚政の擁護を受けました。三世陶作の頃には「茶の湯」が武人から公家や町衆へお茶が広く浸透していき、朝日焼も広く好まれる茶器を生み出していきます。

2.    四世以降、陶芸だけでは生計が立てられず、半農半陶で伝承を守った多角的経営時代。

江戸時代中期は朝日焼にとって大変厳しい時代です。宇治の半農(製茶業)半陶を余儀なくされ、宇治川の渡り舟の管理などもしながらも宇治の地で窯を守り、七世長兵衛も窯の火を絶やすことはありませんでした。

3.   八世、九世長兵衛が 朝日焼の復興に奮闘した時代。

幕末、八世長兵衛は御所の出入りを許され、公卿庭田家の庇護のもと朝日焼の復興に奮闘します。新しい取り組みの煎茶器を完成させ、 九世長兵衛は先代の新しい取り組みを継承し、江戸時代初期を凌ぐ盛期を迎えます。朝日焼の歴史の中で一番の過渡期。

4.   明治・大正・昭和・平成と移り変わる時代。

九世長兵衛の後、明治の変貌の時代は十世安兵衛から十一世平次郎へと続き、また厳しい時代へと変わっていきます。わずか10年ほど前の発展が夢のように、作品をたくさん制作することが難しい時代となります。安兵衛も平次郎も残っている作品の数は僅かしかありません。そんな時代を経て、十二世昇斎が継承したのちにも大変難しい時代が続きました。ところが明治三十一年十一月に突然、皇太子(後の大正天皇)が朝日焼の窯場に御成り、昇斎の制作工程を見学、そして作品をたくさんお買い上げ賜りました。昇斎はその光栄を後世に残すべく、その後一生懸命に努力し朝日焼の窯元としての地位を立て直し、大正、昭和、平成を続く礎を築き上げました。これ以後、皇族をはじめとする要人の宇治訪問では朝日焼に立ち寄ることが恒例となり、皇室との関係は今日までつづいています。
その後の十三世光斎も戦争へ向かう厳しい時代を。十四世豊斎は終戦後の物が何も無いところから築き上げる時代。そして、十五世豊斎と十六世豊斎と代は継承され、現在の朝日焼へと松林家が繋いでまいりました。





 

朝日焼の店主
松林俊幸